西洋美術史をざっくり理解する

美術館には好きでちょくちょく出かけるんだけど、どの画家がいつの時代の人なのかとかがいつもあやふやな感じだったので、『西洋絵画の歴史』という全3巻の新書を読んでみた。3冊といっても新書なのでさっくり読めて、ルネサンスの始まる15世紀から20世紀までの絵画の歴史を概観できる。

このシリーズでは絵画の美術的・技術的な話だけでなく、社会背景をよく説明してくれているので、歴史上の出来事と絵画作品の関係を関連付けて記憶しやすかった。特に、絵の発注者が誰であるかという点(お金の流れ)に注目すると色々なことがスッキリと理解できる。

ルネサンス時代の絵画の主な発注者は教会か貴族。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な『最後の晩餐』(1498年)は修道院の食堂に描かれたし、教会の絵が裕福な貴族から発注されるということもよくあった。貴族からのプライベートな注文を受けて制作する場合もあって、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』(1485年)は個人の邸宅に飾られていた絵画だった。肖像画というジャンルが発展し始めたのもこの時代で、有力者の肖像画を描くという商売が成り立った。レオナルドは『モナ・リザ』(1503年)を自分で持ち歩き、自分のポートフォリオとして注文主に見せていたらしい。

16世紀の初頭、ボッティチェリが1510年、レオナルドが1519年、ラファエロが1520年とルネサンスの巨匠が相次いで亡くなり、これが盛期ルネサンスの終わりとされる。

1517年のルターの批判から始まる宗教改革は美術界に大きな影響を与えた。それまで絵画といえば宗教画であったのだが、プロテスタントは偶像崇拝を批判し、偶像破壊運動が特に盛んだったネーデルラント(オランダ、ベルギー)では、宗教画に代わり風景画や静物画という新しいジャンルの絵画が生まれることになった。

ちなみに当時は、絵画のテーマは文学と共通すればするほど価値が高いとされた。歴史画は価値が高く、風景画、静物画、肖像画は低く置かれた。このような作品の格というのは、画家たちが自分達は「職人」ではなく、詩人や文人と同じような地位であるという主張をするために決めた側面があり、画家の集まりを「アカデミア」と呼んだのもそれが理由だったらしい。

経済面でいうとオランダが他国に先駆けて変革を迎える。教会と貴族の力が弱まり、17世紀には中産市民階級が台頭し、中産階級が絵画の注文主となる。中産階級は「教養」に乏しかったから親しみやすい作品を求めて、風俗画、風景画、静物画が好まれた。例えば、レンブラントの『夜警』(1642年)は中産階級が自分たちの集団肖像画を発注した作品だった。

18世紀後半に産業革命と市民革命が起こり、ヨーロッパ全体で市民が社会の主役となる。これにより絵画マーケットというものが生まれる。つまり、画家は貴族などから注文を受けて作品を制作するのではなく、中産階級の市民(ブルジョア)に買ってもらうための絵を自らのアイディアで制作するようになった。このことは、画家に作品制作の自由を与えたが同時に経済的不安定さをもたらした。市民が求めるような作品を作り経済的な成功を求める作家もいた一方、新しい芸術を生み出そうとする前衛的な画家たちも現れた。前衛的な芸術を追い求めて経済的に困窮するというゴッホ(1853-1890)のような画家の典型的イメージはこのような時代背景があって19世紀以降生まれたものといえる。前衛的画家たちは社会的にも経済的にも弱い存在だったので、グループとして活動することが多かった。このことから〇〇派という名称の付いた多くの画家集団が生まれることになる。また、これらの集団は同時代に複数並列して存在するので、すっきりと理解するのが難しい。

この社会構造の変化と絵画への影響は一夜にして起きたわけではなく、19世紀に徐々に浸透していく。19世紀前半には、伝統的な宗教的テーマから離れ、比較的伝統的な手法で描かれた作品を見ることができる。例えば、7月革命を描いた「同時代の歴史画」ともいえるドラクロワの『民衆を導く「自由」』(1830年)、写実的な風景画を描いたバルビゾン派の代表ミレーの『晩鐘』(1857年)、娼婦を生々しく描いて論争を呼んだエドゥアール・マネの『オランピア』(1863年)など。

19世紀後半になると官展であるサロンに縛られない創作活動が活発になる。印象派の初のグループ展は1874年に開催される。この時代の作品を見ていくと、より大胆に既存の絵画の価値観に挑戦していった流れがわかる。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876年)、ポール・セザンヌの『サント・ヴィクトワール山』(1902年)、グスタフ・クリムトの『接吻』(1907年)、アンリ・マティスの『ダンスII』(1909年)など。

第一次世界大戦(1914-18)前後には抽象絵画が生まれる。カンデンスキーの『コンポジションVII』 (1913年)、モンドリアンの新造形主義宣言(1920年)。シュールレアリスムは1920年代半ばのパリで生まれる。ダリの『記憶の固執』(1931年)。

2つの世界大戦を経て美術の中心はヨーロッパからニューヨークへと移る。マルセル・デュシャンは第一次世界大戦中にパリからニューヨークへ移り、『泉』(1917年)を発表する。モンドリアンも第二次世界大戦中にニューヨークへ移住している。ポップアートの中心はニューヨークとなる。ロイ・リキテンスタインの『た、たぶん(少女の絵)』(1965年)、アンディ・ウォーホールの『モンロー』(1967年)。


こうやってみると、社会的制約がなくなって画家が自由に作品を作れるようになった19世紀後半からは作品の時間関係を把握することは正直難しい。この時代を理解するには美術的なロジックを知る必要がある気がする。

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