昭和30年代の西麻布 — 「麻布いわ田 魚魚物語」

この本は、西麻布1丁目(権八のすぐ裏あたり)で魚屋さんを経営する主人が1996年に出版したエッセイ。西麻布に住んでいた向田邦子さんとの話が一押しの本だと思うけれど、岩田さんの子供時代の西麻布界隈が描写されていて自分には興味深かったです。

「麻布霞町、わが青春の町」と題された章に、昭和30年代前半の西麻布界隈の描写があります。

いまの外苑西通り、なぜかキラー通りという名で呼ばれている大通りは、まだなかった。この通りができるまでこの辺り一帯は、広い原っぱで、雑草が生い茂り、草ぼうぼう。秋ともなれば、トンボの大群が発生し、目をつむって、虫とり網をひと振りすれば、シボがとれた。

青山墓地の西側の外苑西通りは元々川が流れていたところで、田んぼがあったような場所なので、原っぱがあってトンボが飛んでいるというのも不思議でないと思います。(ちなみに、この「シボ」というはトンボの種類かと思うのですが、ちょっと調べたけどよく分かりませんでした。)

更に、西麻布の交差点を通っていた、四谷と品川駅を結んでいた都電7系統の描写もあります。

当時は、いまの広い六本木通りはない。霞町の交差点に立って青山墓地のほうを見ると、都電のむき出しの線路が四本、青山方面に真っすぐ伸びていて、やがて右へ曲って消えている。左側は、枕木に有刺鉄線が張られた柵があり、右角の都電の停留所の前は、そこだけが広く、そこから見ると墓地の大木が見える。その樹の下が、私たちの草野球のメッカ。

愛用してる「東京時層地図」というアプリでみると、昭和30-35年ごろの地図は下のような感じになっている。本の描写のとおり、霞町交差点(西麻布交差点)から北の方向をみると、都電が右に折れているのが見えます。「右角の都電の停留所」というのは、「墓地下」の停留所で(今は同じ名前のバス停になっている)、確かにその前に広い空き地があります。当時は、ここで子供達は野球をしていたんですね。

ちなみに、1964年の墓地下停留所の写真がAREAのこの記事に載っています。1964年は昭和39年なので、本の描写と地図より5年ちょっと後になりますが、当時の雰囲気が想像できるかもしれません。

「霞町雑記」– 六本木通りから富士山が見えた時代

西麻布の昔の様子を描いた本が読みたくて、霞町というタイトルがついた本を検索した結果、古本で買ってみた本です。結論からいうと、霞町の様子はほぼ全く書かれていませんでした… ^^;

唯一の描写は「序にかえて」の部分だけ、ちょっと長いけど引用すると、

私は麻布霞町に住んで居る。六本木の十字路から約十分の行程である。良いことに、この十字路の角に、老舗の書物屋がある。車から降りて、書架の新刊書に一通り目を通し、それからツエをついて帰るに、丁度かつこうである。このコースを実行し度いといつも思いながら、帰りは大抵夜になり、いつしれず怠つて終う。ある土曜日の日、それは冬としては珍しく晴渡つた夕陽の時であった。私はゆつくり緩り歩む。富士はあの端麗な姿で、真向いに私を迎えるかの様である。

この六本木交差点の書店というのは、2003年に閉店した誠志堂書店。当時(昭和25年)には、六本木通りから富士山が見えたみたいですね。

ちなみにこの本の著者は日銀総裁、大蔵大臣だった一万田尚登。敗戦直後の日本の雰囲気が伝わってくる文章でした。